鬼神伝

祀祓衆決戦編

無名寺の火

ぽつ……
ぽつ……。

夜の森に、雨が落ちてきた。
葉を叩き、土を濡らし、冷えた匂いを地に滲ませていく。

玄蓮は、眠り込んだ陸奥を背に担いだまま、ふと足を止めた。
夜空を仰ぎ、頬に当たる雨をひとつ確かめる。

「ふむ……こりゃあ本降りになるのう」

次第に、雨脚が太くなる。
闇の奥で枝が重くしなり、森は黒く沈んでいった。

――ほどなくして、森のさらに奥に“影”が浮かび上がる。

崩れかけた山門。
屋根は半ば落ち、柱は傾き、寺号を刻んだ板は風雨に削られ、読めない。
苔と蔦だけが、往時の輪郭を辛うじて繋ぎ止めている。

名もなき寺。
いや――名を失った寺。

玄蓮は気にも留めず、ずかずかと雨の中を進んだ。

「雨宿りくらいはできよう。寺とは、元来そういうもんじゃ」

山門をくぐると、空気の温度が僅かに変わる。
雨音の粒立ちが柔らぎ、どこか“境”を越えた気配がした。

軒下に入り、玄蓮は陸奥を丁寧に下ろした。
濡れた袈裟を軽く絞り、荷袋を探る。

やがて――ぱちり。

火打ち石の乾いた音とともに、小さな火が生まれた。
湿った空気の中に、煙とともに香ばしい匂いが広がっていく。

握り飯。
根菜の入った、簡素な汁。

荒れ果てた堂の片隅で、雨音と焚火のはぜる音だけが、静かに夜を温めた。
その炎は温かいが、どこか“律”めいた冷えを含んでいる。
玄蓮の術の匂いが、まだこの場に残っているのだ。

陸奥の鼻が、ひくりと動く。

(……いい匂い……)

次の瞬間、ぱちりと目が開いた。

見知らぬ天井。
朽ちた梁。湿った畳。
破れた障子の向こうで、雨の線が斜めに走っている。

そして――焚火の前で腕を組む老人。

「起きたか」

玄蓮の声に、陸奥は反射的に身を引いた。

「お前……!」

構えようとした、その瞬間――

ぐぅぅぅぅ……

締まりのない音が、堂内に響いた。

陸奥の顔が、みるみる赤くなる。
怒りの熱と、腹の正直さが衝突して、行き場を失った。

玄蓮は一瞬きょとんとし――次の瞬間、腹を抱えて笑った。

「ははは! 威勢のいい腹の音よ」

焚火の脇に器を置く。

「ほれ。握り飯と汁じゃ。食え」

「……いらねぇ」

「そうか。なら、わしが食うが――」

玄蓮が大きく口を開けた、その瞬間。
陸奥の手が伸び、器をひったくった。

「食う!!」

がぶっ。

獣のような勢いで握り飯にかぶりつき、汁をすすり、頬を膨らませてかき込む。
泣かない。だが、喉が鳴り、肩が小さく震えていた。
腹が空いているせいだけではない。

玄蓮は何も言わず、その様子を見守りながら薪をくべた。
火が少しだけ強くなり、濡れた堂の奥の影が、ゆっくりと後退する。

「わしは玄蓮という。梵蓮院の僧侶じゃ」

陸奥は口を動かしたまま睨みつける。

「……なんで俺を助けた」

「助けたつもりはない。すべては巡り合わせじゃ」

玄蓮は淡々と言う。
“仏の導き”という言葉を、あえて飲み込んだ言い方だった。

「強いて言うなら、祀祓衆が気に食わんだけよ」

その名を聞いた瞬間、陸奥の目が鋭くなる。
握り飯を握る指に力が入り、米粒が潰れた。

「……あいつらは、母ちゃんを殺した」

「知っておる」

焚火が低く唸る。
炎の中に、刃のような光が走った。

「祀祓衆は――“祓い”を名乗っておるが、正体は人の皮を被った鬼の一派じゃ」
「“鬼神の瞳”を持つ者を見つければ、迷いなく潰しにかかる」

陸奥の拳が震える。

「……なんでだよ」

怒りと戸惑いが混じった声。
玄蓮は一拍置き、火を見つめたまま続けた。

「祀祓衆が崇める“邪鬼神”がおる」

「……神?」

「鬼の神じゃ。いや――神と呼ぶのもおぞましい」

玄蓮の声が低く沈む。

「昔、世界を喰らい尽くそうとした大厄災。
 人も鬼も区別せず、ただ“命”を餌にした存在よ」

雨音が、少し強まる。
寺の屋根の穴から落ちた雫が、焚火の縁で蒸気を上げた。

玄蓮は陸奥の瞳を、指で差すでもなく――ただ、見据えた。

「そしてな……その邪鬼神を討てるのは、鬼神の瞳を持つ“鬼宿し”だけ――という古い伝承がある」

陸奥の喉が鳴る。
だがそれは恐れではなく、乾きだった。
“理由”が欲しかったのだ。

「十二の獣を従え、それらすべてを己の力として束ねたとき、邪鬼神さえ滅ぼせる……とな」

焚火が、ぱちりと爆ぜた。

「だから祀祓衆は、お主を殺そうとする。
 “器”でも、“災いの芽”でもない」

玄蓮の声が、重く沈む。

「お主は――奴らの“神を殺す因(いん)”そのものだからじゃ」

陸奥の背筋が、ぞくりとした。
自分の中にある“何か”が、遠い記憶のように動いた気がした。

雨の匂い。薪の匂い。
そして、胸の奥で燃える、まだ名のない怒り。

玄蓮が問う。

「母の仇を討ちたいか」

陸奥は、息を吐くように頷いた。

「ならば己の核に眠る十二獣鬼を解き放ち、力とせよ。
 でなければ祀祓衆には勝てぬ」

陸奥はしばらく黙り込んだ。
握り飯を食べる手が止まり、火の揺らぎだけを見つめる。

「……俺に、できるのかよ」

声は小さい。だが、折れていない。
玄蓮は火を背にして笑った。
その笑みは優しさではなく、“修羅場の先輩”の笑みだ。

「できるさ」

そして、軽く言い切る。

「わしと来るならな」

破れた障子が風に揺れ、雨が横殴りに吹き込む。
無名の寺は今にも崩れそうで、しかし焚火だけは揺るがない。

陸奥の胸に、小さな火が灯った。

「……行く」

拳を握りしめ、顔を上げる。

「強くなって、母ちゃんを殺した祀祓衆を――全部ぶっ倒す」

玄蓮は満足そうに頷き、握り飯をもうひとつ差し出した。

「よし。まずは食え。修行も復讐も、それからじゃ」

陸奥は受け取り、今度はゆっくり噛みしめた。
米の熱が、腹の底に落ちる。
それは涙では埋まらない穴を、ほんの少しだけ塞いだ。

雨の中、名も失った寺。
僧侶と鬼宿しの旅が、こうして静かに始まった。

――遠くで、雷がひとつ鳴った。
それが空の怒りなのか、邪鬼神の寝返りなのかは、まだ誰にも分からない。

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