祀祓衆決戦編
拾われし災い
チリン――。
森の深い静寂を、澄んだ輪の音が一直線に断ち割った。
風が止み、虫の声が途絶える。山そのものが、音の主に耳を澄ませたかのようだった。
祀祓衆が、はっとして動きを止める。
白い仮面の奥の視線が、一斉に音のした方へ向いた。
杉の影が揺れ――その奥から、ひとりの老人が現れる。
くたびれた袈裟を肩に掛け、手には古びた錫杖 "裁理《さいり》"を握る。
長い白眉が垂れ、背は高くない。
だが、その足取りには迷いがなく、気配だけが重い。
梵蓮院の高僧――玄蓮法師(げんれんほうし)だ。
その眼光だけが異様だった。
夜の闇を見透かすほどに澄み切り、静かな圧を孕んでいる。
「……何じゃ何じゃ」
玄蓮は欠伸を噛み殺すように肩をぐるりと回し、面倒くさそうに言った。
「騒がしい夜よのう。年寄りの眠りを邪魔するでないわ」
祀祓衆の男が低く呻く。
「……法師、そこをどけ。我らは務めを果たしているだけだ」
「ほう。務め、とな」
玄蓮は鼻で笑い、錫杖を軽く鳴らす。
「幼子を殺めようとしておる場に立ち会って、黙っておれという方が無理じゃろう」
祀祓衆の一人が、仮面の奥で歯噛みするように息を吐いた。
「……邪魔立てするなら、容赦はせぬぞ。法師」
玄蓮は肩を竦め、小さく笑った。
そして、錫杖をひとつ――チリン。
澄んだ音のはずなのに、森の空気が張り詰める。
霧が冷え、土が沈み、闇が硬くなる。
まるで“戒め”そのものが、この場に降りたようだった。
「“務め”を盾にすれば、何をしても許されると思うなよ」
錫杖の石突が、土を軽く叩いた。
その瞬間――玄蓮の足元に、淡い光が円となって広がった。
地に触れた錫杖は、朽ちた色を脱ぎ捨てるように黄金へと移ろい、
首から下げた大数珠が、意思を持つ蛇のように微かにうねる。
その光は温かくない。
むしろ冷たい。人の欲も言い訳も許さぬ、仏門の“戒”の冷たさだ。
カン――!
乾いた音とともに、空気が爆ぜる。
目に見えぬ衝撃が森を走り、祀祓衆の仮面に蜘蛛の巣状の亀裂が一斉に刻まれた。
「ぐっ……!」
たまらず退く祀祓衆。
だが玄蓮は指を組み、息を切ることもなく短く唱える。
「戒法術――《縛霊(ばくれい)》」
言葉が結ばれた刹那、闇が裂ける。
無数の光の鎖が走り、白い影の四肢を絡め取り、骨ごと締め上げた。
「ぅがぁぁぁっ……!」
抵抗の声が森に滲み、次の瞬間――“消える”のではなく、“剥がれ落ちた”。
白装束の輪郭が薄紙のようにめくれ、足元の光の円へ吸い込まれていく。
祓いの札が焼けるような匂い。
仮面の割れ目から漏れた呻きは、どこか遠い場所へ引きずられるように細くなり――
ぷつり、と途切れた。
残ったのは、冷え切った空気だけ。
ここは戦場ではなく、裁きの場だったとでも言うように。
森に、再び静寂が戻った。
ただ――先ほどよりも深い、重い静けさが。
陸奥はその場に立ち尽くしていた。
「祀祓衆が……消えた……?!」
理解が追いつかない。
だが目の前の老人が“只者ではない”ことだけは、本能が告げていた。
玄蓮は大きく息を吐き、陸奥を見下ろす。
「お主……こんな山奥で、何をしておる」
陸奥は答えない。拳を握り締め、玄蓮を睨みつける。
玄蓮は首を傾げた。
「ん? わしの顔に、何かついとるか?」
言い終える前に――陸奥は胸の前で指を組み、体内に眠る招鬼を叩き起こす。
「来い! 卯鬼(うおに)! 跳兎鬼(ちょうとき)!!」
瞬間、陸奥の足元の影が裂けるように広がった。
闇から白い耳がぴょこんと立ち、霧のような鬼気を纏った兎が次々と跳ね出す。
鳴き声はない。
ただ、命令に従う意思だけが、冷たく宿っていた。
兎の影は陸奥の脚へ吸い込まれるように絡みつき、同化する。
骨が軋み、筋が唸る。膝から下に、異様な推進力が宿った。
――同時に、陸奥の呼吸が変わる。
浅く、速く。肺が追いつかないのに、身体だけが前へ前へと求める。
熱が上がり、皮膚の内側が灼けるように熱い。
影が濃くなった。
月光の下で、陸奥の足元だけが不自然に黒い。
まるで別の“影”が重なっているように。
空気が震えた。
「……っ!」
制御もできぬ反動のまま、陸奥は爆ぜるように跳躍する。
一瞬で玄蓮の眼前。怒りを叩きつける蹴りが放たれた。
玄蓮は目を丸くする。
「……ほう。……速い」
だが――指一本、軽く動かした。
ピタ。
陸奥の脚が空中で止まる。
見えない何かに掴まれたように、微動だにしない。
「むっ……!」
怒気がさらに燃え上がった、その瞬間――
陸奥の瞳が黄金に染まり、夜闇を照らすほどの異様な輝きを放つ。
体温が、さらに跳ね上がる。
握った拳の節が白くなり、血管が浮き、影がなお濃く沈む。
まるで“器”の内側から、何かが起き上がろうとしている。
玄蓮の顔から、眠気が完全に消えた。
「……なるほどのう」
静かに、しかし確信をもって呟く。
「その瞳……お主、もしや鬼宿しか……」
陸奥は唸り、拘束を破ろうと暴れる。
だが玄蓮は赤子でも扱うように、ひょいと陸奥を持ち上げた。
「落ち着け」
「離せッ!」
「離さん」
「離せって言ってんだ!!」
玄蓮は陸奥の頭を、軽くぽんと叩く。
「腹が減っておるだけじゃ。ほれ、飯を食わせてやる。ついて来い、小鬼」
「小鬼じゃねぇ! 陸奥だ!」
「陸奥か。いい名じゃ」
声音は優しくも冷たくもない。
ただ、揺るぎがなかった。
陸奥は抵抗しようとしたが、身体はすでに限界だった。
母を失い、走り続け、怒りを燃やし続けた幼い身体。
そこへ無理矢理ねじ込んだ鬼の力が、芯から削っていた。
まぶたが、重く落ちる。
玄蓮の腕の中で、陸奥はついに眠りへ落ちた。
玄蓮は小さく息を吐き、夜空を見上げる。
「まったく……厄介なものを拾ってしもうたわ」
だが、その口元は、わずかに笑っていた。
「……これも仏のお導きかのう」
玄蓮は陸奥を抱えたまま、山の闇へと歩み去る。
その先に何が待つのかは分からない――
ただ、夜はもう騒がしくなかった。

