鬼神伝

祀祓衆決戦編

鬼宿しの器

山の夜風が、杉の森を荒々しく揺らしていた。
太い幹が軋み、枝葉が擦れ合い、闇の中で低い唸り声のような音を立てる。

人の世と異界の境に連なるこの山は、
夜になると別の顔を見せる。
湿った土の匂い。獣の気配。
そして、人ならざるものが潜む気配。

そんな獣道を駆ける二つの影があった。
鬼の女――祈凛(きりん)と、
その手を強く握られた幼い少年――陸奥(むつ)。

「まったく、しつこい奴らだね…」

祈凛は後ろを振り返りながら息を乱さず、足を止めない。
その歩幅に必死で合わせながら、陸奥も走っていた。

泣かない。
叫ばない。

小さな胸を上下させながら、陸奥は母の横顔だけを見つめている。
鬼の黄色い瞳。鋭く、しかしどこか優しいその目。

「母ちゃん、俺も戦う!」

息を切らしながら、陸奥は叫んだ。

「俺だって……!」

祈凛は走りながら、ちらりと息子を見て笑った。
それは恐ろしい鬼の笑みではない。
叱りつけるでもなく、甘やかすでもない――
修羅場をくぐり抜けてきた母親の、太い笑みだった。

「馬鹿言うんじゃないよ、陸奥」

夜風に声を乗せて、祈凛は言う。

「まだ手のひらほどの子が、誰を殴るつもりだい?」

「殴れる! 俺は逃げたくない!」

必死な叫びに、祈凛は鼻で笑う。

「そうかい。じゃあ大きくなってから、好きなだけ殴りな」

その声は、あまりにも軽い。
まるで背後に迫る“それ”の存在を、意にも介していないかのように。

だが、闇の中――
白い影たちが音もなく迫っていた。

白装束に身を包み、顔には仮面。
“災いの芽”を摘み取るためだけに存在する集団。
名を “祀祓衆(しはらいしゅう)”。

仮面の奥から、歪んだ声が漏れる。

「逃がすな」

低く、冷たい声。

「あの器……鬼宿しの血だ。
 このまま育てば、我らに禍をもたらす」

陸奥は足を止め、振り返った。
その小さな体に似つかわしくない、強い目で叫ぶ。

「うるせぇ!災いかどうかなんて俺が決める!」

夜気を切り裂く声。
祀祓衆が、一瞬だけ動きを止めた。
幼子とは思えない眼差し。
怯えも迷いもなく、ただ怒りと意志だけが宿っている。

祈凛は思わず吹き出した。

「ははっ……」

短く、誇らしげに。

「いい度胸だよ、お前は」

その直後――祈凛は、ぴたりと足を止めた。

勢い余った陸奥が体当たりするようにぶつかり、
祈凛はその体を腕の中に抱き留める。

「陸奥…」

声の調子が変わる。

「ここからは、ひとりで行きな」

「嫌だ!」

陸奥はすぐに叫び返す。

「母ちゃんを置いていかねぇ!」

祈凛はしゃがみ込み、陸奥の肩を両手で掴んだ。
母の眼が、真正面から息子を見据える。

泣いていない。
怯えてもいない。

そこにあるのは、覚悟だけだった。

「いいかい」

低く、確かな声。

「お前は――あたしの誇りだ」

風が二人の間を吹き抜け、杉の枝が鳴る。

「だから生きな。
 生きて、大きくなりな」

一瞬、柔らかく笑い――

「そしたら、あたしの代わりに」

祈凛は歯を見せて笑う。

「この世界を、思いきりぶん殴れ!」

陸奥の瞳が揺れた。
だが、涙ではない。
怒りと決意が、内側で燃え上がっている。

「……絶対戻るからな、母ちゃん」

「戻んなくていい!生きろ!」

即座に言い切る。
祈凛は立ち上がり、陸奥の背中を強く押した。

「走れ、陸奥!!!」

陸奥は地を蹴った。
振り返らず、森の奥へと走り出す。

祀祓衆が追おうとした、その瞬間――
祈凛の全身から、紅い鬼気が爆ぜた。

「あんたら、覚悟はいいかい…」

空気が震え、地が鳴る。
赤黒い気配が、壁のように立ちはだかる。

仮面の奥で目を細め、祀祓衆の一人が吐き捨てる。

「女…… 鬼の分際で、人の子の真似事か」

祈凛は鼻で笑った。

「真似事だって?笑わせんな…」

鬼気がさらに膨れ上がる。

「鬼でも、母親くらい務まるさ」

紅い闘気を纏い、祈凛は構える。

「来な――祓いの化け物ども」

森が揺れた。
祈凛の姿が、夜の闇へと躍り込む。

***

陸奥は、振り返らない。
振り返れば――母の覚悟が揺らぐ気がした。

胸が焼けるように熱い。
息は苦しい。
だが、涙は出ない。

怒りだけが、体を突き動かす。

「……絶対、生きる」

歯を食いしばり、走る。

「母ちゃんが、そう言ったんだ……!」

枝を払い、何度もつまずきそうになりながら、
陸奥は獣道を走り続けた。

風が音を運ぶ。
遠くで、木が折れる音。
まるで巨獣が暴れているかのような破壊音。

祈凛が戦っている。
陸奥は拳を握りしめ、走る。

(母ちゃん……強えんだ。だから俺も……!)

月光が差し込む開けた場所に出た瞬間、
森が不意に、静まり返った。

風も、虫の声も、消える。
嫌な気配。

「……母ちゃん……?」

声は震えていない。
ただ、確かめたいだけだった。

もと来た道を、引き返したい衝動にかられる。

その静寂を裂くように――
背後で、足音がひとつ落ちた。

「母ちゃん!」

さっと振り向く。

だが、そこにいたのは白装束の祀祓衆。
裂けた仮面を押さえ、血を滴らせながら立つ――
祈凛と戦い、生き残った唯一の者だ。

「……母親は死んだ」

低く、嗤う。

「次は、おまえだ。小鬼」

「おまえは“災いの芽”。
 今ここで潰す」

陸奥の拳が震え、目が燃え上がる。

「てめぇ……!」

陸奥の怒気が爆ぜる。

祀祓衆が一歩踏み込み、
陸奥の頭を掴もうと手を伸ばした、その瞬間――

チリン……

どこからともなく、
錫杖(しゃくじょう)の輪の音が、夜の森を切り裂いたのであった。

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